北海道の知床と聞くと、人の手がまったく入らない原生の森と、ヒグマがのし歩く手つかずの大自然を思い浮かべる方が多いはずです。その「知床は人が立ち入れないヒグマの王国」というイメージは、半分は正しいといえます。知床半島はヒグマの生息密度が世界でも指折りに高い場所で、いつどこで出会ってもおかしくない土地です。

ところが、その知床の奥深く、ルシャという番屋で、銃も持たずに「コラ 来るな」の一声だけで野生のヒグマを追い返し、半世紀ものあいだケガひとつせずに漁を続けてきた老漁師がいます。これが、テレビで知られるようになった「知床の熊のおじさん」こと大瀬初三郎さんです。

なぜそんなことが可能なのでしょうか。この記事では、熊のおじさんの正体と叱り方、全国に知られた理由、そして私たちが決して真似してはいけない理由まで、世界遺産の知床で続いてきた人とヒグマの関係を、順を追って種明かししていきます。

  • 知床の熊のおじさんと呼ばれる大瀬初三郎さんの正体と暮らし
  • 「コラ」でヒグマを追い払う叱り方と、その大前提
  • NHKで全国に知られた理由と、番組の見どころ
  • 一般の観光客が真似してはいけない理由と、遭遇時の心得

ただの変わった漁師の話ではありません。この一人の暮らしには、人とヒグマがどう距離を取れば共に生きられるのか、その答えが詰まっています。

知床の熊のおじさんとは何者か

知床の熊のおじさんと検索する人の多くが探しているのは、テレビで見た「ヒグマを叱る漁師」の正体です。まずはその人物と、暮らしの舞台であるルシャの番屋から押さえていきます。どんな場所で、どんなふうにヒグマと向き合ってきたのかを知ると、話が一気に立体的になります。

知床の熊のおじさんの人物プロフィール図

熊のおじさんの正体は老漁師の大瀬さん

知床の熊のおじさんの正体は、大瀬初三郎さんという一人の老漁師です。1935年生まれで、知床の海で半世紀以上にわたってサケやマスをとる漁を続けてきました。テレビで「ヒグマを叱る老漁師」として繰り返し取り上げられ、その姿が「熊のおじさん」という通称で広まりました。

なぜこれほど注目されるのか。その理由は、ヒグマがひしめく知床の奥地で、武器も使わず、逃げもせず、ただ叱ることでクマと折り合いをつけて暮らしてきたからです。野生のヒグマは本来、人にとって命に関わる相手です。その相手と半世紀も渡り合い、大きなケガもなく漁を続けてきた事実そのものが、多くの人の心をつかみました。

「熊のおじさん」と聞くと、クマを手なずけている人や、エサを与えて仲良くしている人を想像するかもしれません。しかし大瀬さんはその真逆です。エサは一切与えず、あくまで叱って距離を保つことで、人とクマの境界線を守り続けてきました。手なずけるのではなく、線を引く。その姿勢こそが、この老漁師を特別な存在にしています。ここを取り違えると、話の芯を丸ごと読み違えてしまいます。

この記事にたどり着いた方の多くは、テレビや動画でその姿を目にして、いったい何者なのかと検索したはずです。大瀬初三郎という名前と、知床の漁師という肩書きさえ押さえておけば、断片的に流れてくる映像の意味が一本の線でつながります。ヒグマを手なずける奇人ではなく、境界を守り抜いてきた職人。そう捉え直すと、次に見る番屋や叱り方の話が、まるで違う重みで入ってくるはずです。

知床ルシャの1号番屋という舞台

大瀬さんが暮らしてきたのは、知床半島の奥深くにあるルシャと呼ばれる地区の番屋です。ここは道路が通じておらず、船でしか近づけない秘境で、周囲はまさにヒグマの世界が広がっています。人の生活の場と原生の自然が、塀もなく地続きになっている場所です。

ここで大切なのが、とかいかんが北海道を測るときの物差しである「近接」です。ルシャは陸の孤島のような奥地でありながら、観光船が行き交う海や、ウトロの市街地からそう遠くない海沿いにあります。人が普通に観光するエリアと、素手でヒグマと向き合う暮らしとが、数キロ、船なら数十分という距離で隣り合っているのです。この近さこそ、知床という土地の底知れなさを物語ります。

そんな番屋で、大瀬さんはサケやマスの定置網漁を営んできました。ヒグマの生息密度が世界有数の海辺で漁をするというのは、常にクマと鉢合わせる可能性と隣り合わせだということです。番屋を守るとは、漁の道具や獲った魚を守るだけでなく、クマとの境界そのものを守ることでもありました。奥地の孤独な仕事場でありながら、そこには人とヒグマがどう共に居られるかという、知床全体に通じる問いが凝縮されています。

この番屋には、世界遺産という理想と、そこで営まれてきた生業とのきしみもにじみます。2019年にはユネスコの委託を受けた調査団が知床を訪れ、漁で使ってきた道路や橋の撤去を求めたと伝えられています。人の営みを消して自然を守るのか、人が暮らしながら自然と折り合うのか。大瀬さんの番屋は、その問いが最も先鋭に立ち上がる場所でもあります。手つかずに見える知床の奥地にも、こうした人と制度のせめぎ合いが確かに存在しているのです。

コラ来るなヒグマを叱る独特の方法

熊のおじさんが知られるようになった最大の理由が、そのヒグマの叱り方です。近づいてくるクマに対し、大瀬さんは目をそらさず、腹の底から「コラ 来るな」と低く大きな声を出し、さらに一歩前に踏み出すといわれます。人が引くのではなく、あえて前に出ることで、クマのほうが引き下がるという流儀です。

ヒグマを叱る3つのコツの図解

この方法が成り立つのには、動物としてのヒグマの性質が関わっています。本来のヒグマは臆病で、自分より強そうな相手や、正体のつかめない相手を避ける傾向があります。目をそらさず声を張り、前に出る姿は、クマに「この相手は格上で、手を出すと危ない」と感じさせる合図になっているのです。人の側が恐れて背を見せた瞬間に、力関係は逆転してしまいます。

興味深いのは、道具ではなく声と姿勢だけで間合いを制している点です。銃や罠に頼れば、その場は収まっても人とクマの関係はそこで断ち切られます。声で叱り、引かせるというやり方は、相手を殺さずに境界を伝える、対話にも近い手立てです。もっとも、この対話が成立するのは、相手が人の気配を正しく読み取れる本来のクマである場合に限られます。読み取る力を失ったクマには、同じ声も姿勢も届きません。

ただし、ここで強く念を押しておきます。この叱り方は、半世紀の経験と、その土地のクマとの長い関係の上にはじめて成り立つ特殊な技です。知識として知っておくのはよいことですが、旅行者がその場で試してよい方法ではありません。なぜ一般の人が真似をしてはいけないのかは、この記事の後半でくわしく種明かしします。まずは、そういう流儀があるという事実だけを受け止めてください。

NHKで全国に知られた理由

大瀬さんが全国に知られたのは、NHKの番組で長く取り上げられてきたからです。2020年4月19日に放送されたNHKスペシャル「ヒグマと老漁師 世界遺産・知床を生きる」や、同年6月7日にBS1で放送された「ヒグマを叱る男 完全版36年の記録」で、その暮らしぶりがていねいに描かれました。番組名のとおり、取材は実に36年間にわたっています。

これほど長い密着が可能だったのは、大瀬さんの生き方が一過性の話題ではなかったからです。世界遺産に登録される前から、登録されたあとも、変わらずヒグマと向き合い続ける姿は、人と自然の関係を考えるうえで格好の題材でした。放送では、野生のヒグマを叱って追い払いながら、これまで襲われて大きなケガをしたことはないという事実も紹介されています。番組の詳しい内容はNHK ヒグマを叱る男を紹介したニュース記事が参考になります。

番組が多くの反響を呼んだのは、単に珍しいからではありません。危険なはずの野生動物と、どうすれば境界を保ったまま共に生きられるのか。その問いに、理屈ではなく一人の暮らしそのもので答えている点に、見る人は引き込まれます。派手な演出ではなく、日々の漁とクマとのやり取りを積み重ねた記録だからこそ、熊のおじさんの言葉は重く響きます。テレビで見て検索した人が、その正体をもっと知りたくなるのも自然な流れです。

番組を通して伝わってくるのは、勇ましさよりもむしろ、クマへの敬意と張りつめた緊張感です。相手を侮らず、しかし過度に恐れず、毎日その距離を測り直す。長い密着だからこそ、その日々の積み重ねが画面ににじみます。一頭ずつ性格の違うクマと向き合いながら、決して気を抜かない。その姿は、自然と共に生きるということが、甘い共感ではなく厳しい規律の上に成り立つのだと教えてくれます。

なぜ熊を殺さず叱る道を選んだのか

大瀬さんが叱るという方法にたどり着いたのは、クマを殺すことへの違和感が出発点だったからだといわれます。若い頃、番屋を荒らすヒグマを駆除するのが当たり前だった時代に、それでよいのかという迷いを抱いたことが、独自の付き合い方を探すきっかけになりました。

意外なことに、大瀬さんも最初からクマと平然と向き合えたわけではありません。ルシャに来たばかりの頃は、ヒグマが怖くて番小屋の外に出られなかったとも語られています。その恐怖を抱えたまま長い年月をかけて観察を重ね、どう振る舞えばクマが引き下がるのかを、体で覚えていきました。叱る流儀は、ひらめきではなく、積み上げられた時間の産物なのです。

ここには、人とヒグマが互いの距離を測り合ってきた知床の歴史が重なっています。追い払う側と、引き下がる側。その微妙な間合いは、一朝一夕で生まれるものではありません。殺すのでもなく、なれ合うのでもなく、線を引いて共に居る。この難しい第三の道を、大瀬さんは半世紀かけて一人で耕してきました。だからこそ、その方法は真似のできる技術というより、生き方に近いものになっています。

この選択は、単なる個人の優しさにとどまりません。クマを一頭駆除しても、番屋が食べ物のある場所として残れば、別のクマがまたやってきます。叱って距離を保つほうが、長い目で見れば人にもクマにも被害を出しにくい。感情だけでなく、番屋を守り続けるための現実的な知恵でもあったのです。半世紀にわたってケガなく漁を続けてきたという実績が、その道の正しさを静かに裏づけています。

半世紀ケガなしを支えた掟

大瀬さんが半世紀もケガなく漁を続けてこられた背景には、エサを絶対に与えないという一本の掟があります。叱り方の巧みさばかりが注目されがちですが、じつはこの一線こそが、人とクマの境界を守ってきた土台です。ここが崩れれば、どんな叱り方も通用しなくなります。

理由は、ヒグマの学習能力の高さにあります。クマは一度おいしい食べ物を人から得ると、その味と場所を覚え、しつこく執着するようになります。番屋の魚や生ゴミを一度でも口にすれば、人は追い払う相手ではなく、食べ物をくれる相手に変わってしまいます。大瀬さんはそれを避けるため、食べ物やゴミの管理を徹底し、クマに人を食料と結びつけさせませんでした。

だからこそ、大瀬さんのクマにとって人は「怖い相手」のまま保たれ、叱れば引き下がる関係が続いたのです。叱る技術の裏には、与えないという地味で厳しい徹底がある。この順番を見落とすと、熊のおじさんの物語はただの武勇伝になってしまいます。境界を守るのは勇ましさではなく、日々の我慢と管理だという事実は、私たち旅行者にもそのまま当てはまる教訓です。

この掟は、旅行者の側にもそっくり置き換えられます。山道や海辺で出した食べ残しやゴミは、クマにとっては人からのエサとまったく同じ意味を持ちます。一人の何気ない行為が、そこに暮らすクマの一生を狂わせ、めぐりめぐって次に訪れる人の危険にもつながっていきます。与えないという一線は、地元の漁師だけが背負う話ではなく、知床を訪れる私たち全員が引くべき線なのです。

なぜ叱ると逃げるのか真似は禁物

ここからが種明かしです。なぜ叱るとヒグマは逃げるのか、そしてなぜ私たちがそれを真似してはいけないのか。近年の知床で深刻になっている「人慣れ」の問題と、2025年に起きてしまった悲しい事故まで、正直にお伝えします。この章は、旅の安全に直結する内容です。

本来のヒグマと人慣れしたヒグマの比較図

ヒグマは本来臆病な動物という前提

叱ると逃げるという現象の根っこには、ヒグマが本来は臆病な動物だという前提があります。環境省や知床財団の解説でも、ヒグマは普通は人を避けて暮らす動物だと説明されています。強そうに見えても、無用な争いは避けたいというのが、野生動物の基本的な行動です。

この前提があるからこそ、目をそらさず声を張って前に出る大瀬さんの流儀が効きます。相手が引かずに向かってくると、クマは危険を感じて距離を取ろうとします。逆に人が慌てて背を見せれば、追う本能を刺激してしまうこともあります。叱って逃がすという方法は、ヒグマのこの臆病さを正確に利用したものなのです。

裏を返せば、この方法は「人を避ける」という前提が保たれている個体にしか通じません。もしクマが人を怖がらなくなっていたら、叱っても引き下がらず、かえって相手を刺激するだけになります。ここが、熊のおじさんの流儀を誰もが真似できるわけではない、決定的な分かれ目です。同じ知床のヒグマでも、育った関係によって反応はまるで変わってきます。臆病さという前提は、決して当たり前のものではありません。

この臆病さは、知床のヒグマが特別におとなしいという意味ではありません。あくまで、人と適切な距離が保たれているかぎり働く性質です。餌付けや度重なる接近でその距離が壊れると、同じ個体でも人を恐れなくなっていきます。臆病さは生まれつき固定された性格ではなく、人との関わり方しだいで揺らぐものだと知っておくことが、知床を安全に楽しむための出発点になります。

叱って逃げるのは人を怖がるから

大瀬さんの叱り方がルシャで通用してきたのは、そこのクマが人を怖い存在だと学習し続けてきたからです。エサを与えず、近づけば叱られるという経験を重ねたクマは、人に近づいても得はなく、むしろ嫌な思いをすると覚えます。その積み重ねが、叱れば逃げる関係を支えてきました。

これは動物どうしの力関係の理屈でもあります。目をそらさず一歩前に出る動作は、クマの世界では「自分のほうが格上だ」という主張に近い意味を持ちます。相手が堂々としていれば、無理に手を出す危険を冒すより引いたほうが得だと、クマは判断します。人の勇ましさそのものが効いているというより、クマがそれを正しく読み取れる関係が続いてきたからこそ成り立つのです。

つまり、叱って逃がす関係は、人とクマが長い時間をかけて築いた約束事のようなものです。片方が約束を破れば、たちまち崩れます。人がエサを与えれば、クマは人を恐れる理由を失い、叱っても逃げなくなります。この関係は、与えないという人の側の努力によってかろうじて保たれている、とても繊細なものなのです。だからこそ、次に述べる人慣れの問題が、これほど深刻に響いてきます。

ここで見落としてはならないのは、この関係が一方通行ではないという点です。人がクマを恐れて距離を取り、クマも人を恐れて距離を取る。その双方の緊張が釣り合ってはじめて、安全な間合いが生まれます。どちらか一方が油断すれば崩れる、綱引きのような均衡です。大瀬さんが半世紀ものあいだ気を緩めず叱り続けてきたのは、この均衡がいかにもろいかを、誰よりもよく知っていたからにほかなりません。

近年深刻化する人慣れという問題

いま知床で深刻になっているのが、ヒグマの人慣れという問題です。環境省の解説では、近年は人を見ても逃げないヒグマが多数見られ、これは人間の興味本位や写真撮影などによる接近が人慣れを進めた結果だと指摘されています。人が近づいたことで、クマのほうが変わってしまったのです。

知床財団も、人間との無害な接触をヒグマが繰り返し経験することで、人間から逃げる必要はないと学習し、人慣れが進むと説明しています。観光客がクマを間近で撮ろうと車を止めたり、こっそりエサを与えたりする行為が、その学習を後押しします。数字で見ると、ヒグマの目撃は2009年以降毎年750件を超え、2012年度にはおよそ2150件にのぼった年もありました。人とクマの距離は、確実に縮まっています。

ここに、この記事のいちばんの落差があります。熊のおじさんが半世紀かけて守ってきた「人は怖い」という一線を、大勢の観光客が知らず知らずのうちに崩している。実は都会的な便利さや好奇心が、原生自然のクマを人慣れさせているのです。クマが人に慣れれば、大瀬さんの流儀そのものが通じなくなります。人慣れの問題は、遠い誰かの話ではなく、知床を訪れる私たち一人ひとりの振る舞いに直結しています。エサをやらない、近づかないという当たり前が、知床では重い意味を持ちます。

やっかいなのは、人慣れがゆっくりと、悪気のないふるまいから進んでいくことです。かわいいから、珍しいからと車を止めて眺める。その一回一回に、クマへの悪意はありません。しかし積み重なれば、クマは人を警戒しなくなります。知床の自然を守るために私たちにできるのは、遠くから静かに通り過ぎるという、拍子抜けするほど地味な行動です。派手な保護活動よりも、この慎みのほうが、実際にはクマの命を守ります。

世界遺産で起きた2025年の死亡事故

人慣れが進んだ先に何が待つのか。それを突きつけたのが、2025年8月に知床で起きた死亡事故です。報道や知床財団の調査速報によると、羅臼岳の登山道を下山していた男性がヒグマに襲われて亡くなり、翌日、現場付近で見つかった親子のクマ3頭が駆除されました。知床が世界自然遺産に登録された2005年以降では、初めてとみられる登山中の死亡事故と報じられています。

この事故は、人慣れの問題と地続きにあります。人を恐れないクマが増えれば、人とクマが不意に近づく場面も増え、最悪の結果につながる危険が高まります。知床では長年、クマとの共存が続いてきましたが、その均衡はけっして盤石ではありません。事故のあと、登山道や知床五湖が利用制限されるなど、観光にも大きな影響が及びました。共存の裏には、常にこうした緊張が張り付いています。

大切なのは、この出来事を怖い話として消費するのではなく、教訓として受け取ることです。クマは襲うために現れるのではなく、人との距離が崩れたときに事故が起きます。だからこそ、私たちにできるのは、クマを刺激しない、近づかない、エサを与えないという基本を守ることです。熊のおじさんが半世紀守ってきた一線の重みは、こうした現実を前にしたとき、いっそう深く胸に迫ります。安全な旅は、正しい距離感から始まります。

この事故は、知床という土地の二面性もあらためて浮かび上がらせました。世界遺産に登録されるほど豊かな自然は、同時に、人の油断を許さない厳しさを抱えています。美しい景色とヒグマの危険は、別々にあるのではなく、同じ知床の表と裏です。訪れる私たちは、その両面を丸ごと受け止めたうえで、自然に敬意を払って歩く必要があります。楽しむことと畏れることは、知床では矛盾しません。

観光客が真似してはいけない理由

ここまでを踏まえて、はっきり申し上げます。大瀬さんの叱り方を、一般の観光客が真似してはいけません。あの流儀は、半世紀の経験と、その土地のクマとの長い関係があってはじめて成り立つものです。土地勘も経験もない旅行者が同じことをすれば、命に関わる事態を招きかねません。

ヒグマ遭遇時の行動チェックリスト

とりわけ危険なのは、人慣れした個体に対してです。人を怖がらなくなったクマに向かって声を張り、前に出れば、相手を追い詰めて刺激するだけになりかねません。本来のクマなら引くはずの動作が、人慣れした相手にはまったく逆に働くこともあるのです。相手がどんなクマかを見分ける力のない私たちにとって、叱るという選択肢はそもそも存在しない、と考えておくのが安全です。

知識として叱り方を知ること自体は、むしろ役に立ちます。なぜクマが逃げるのか、なぜ人慣れが怖いのかを理解していれば、エサをやらない、近づかないという基本の意味が腑に落ちるからです。大切なのは、その知識を自分が実演するためではなく、正しく距離を取るための土台として使うことです。熊のおじさんの物語は、真似する対象ではなく、学ぶ対象として受け取ってください。ここを取り違えなければ、この記事は旅の安全にきっと役立ちます。

では、実際にヒグマに出会ったらどうすればよいのか。基本は、慌てず騒がず、背を向けて走らず、クマから目を離さないまま、ゆっくり後ずさりして距離を取ることです。クマスプレーを携行し、食べ物やゴミは必ず密封して持ち帰り、写真のために近づかない。単独行動を避けることも大切です。知床半島の先端部の施設では、クマスプレーとフードコンテナのレンタルもできます。行動の一覧を、次の早見表にまとめておきます。安全に関する詳しい指針は環境省による知床のヒグマの公式ガイド知床財団によるヒグマの生態と共存の解説を必ず確認してください。

場面 落ち着いてすること 避けるべき行動
遠くにクマを見つけた 距離を取り引き返す 近づいて写真を撮る
クマがこちらに気づいた 目を離さず後ずさりする 背を向けて走って逃げる
さらに接近された クマスプレーを構える 大声で騒ぎ物を投げる
食べ物やゴミがある 密封して持ち帰る その場に残す・与える

大瀬さんの流儀は熟練の技であって、旅行者向けの護身術ではありません。私たちが真似すべきなのは叱り方ではなく、エサを与えず距離を保つという一線のほうです。知床では、近づかないことこそが最大の安全策になります。

まとめ|知床の熊のおじさんが教えること

ここまで、知床の熊のおじさんこと大瀬初三郎さんの正体と、ヒグマを叱る流儀、そしてその裏にある人とクマの関係を見てきました。銃も持たず「コラ」の一声で野生のヒグマを追い返す姿は痛快ですが、その根っこにあったのは、エサを与えず距離を守り続けるという、地味で厳しい徹底でした。

この物語には、知床というブログが大切にしている双方向の落差が詰まっています。人がクマと共に生きられるのは、人が一線を守るからこそです。逆に、その一線を崩したのもまた人でした。近年の人慣れや2025年の事故は、原生自然の側ではなく、近づきすぎた人の側から起きているのです。都会の好奇心が、手つかずの自然を静かに変えているといえます。

だから、私たちが熊のおじさんから受け取るべきなのは、真似できる技ではなく、守るべき距離感です。知床の熊のおじさんが半世紀かけて示してきた「与えない、近づかない」という一線を旅の作法として持ち帰ること。それが、この土地と、そこに生きるヒグマへの、いちばん誠実な向き合い方だと私は思います。知床を訪ねるなら、その物差しをぜひ心の隅に置いてください。

熊のおじさんの流儀の核心は、叱る技術ではなくエサを与えないという一線にあります。人がこの一線を守るかぎり、人とヒグマは境界を保って共に生きられます。知床の玄関口である斜里町の観光とアクセスのまとめもあわせてご覧ください。

知床の熊のおじさんが半世紀かけて守ってきたのは、エサを与えず距離を保つという一線でした。旅行者にできるのは同じ流儀を真似ることではなく、この一線を旅の作法として持ち帰ることです。近づかないことが、クマにも人にもいちばん優しい選択になります。

知床の熊のおじさんに関するよくある質問

最後に、知床の熊のおじさんについて検索されやすい疑問を、簡潔にまとめておきます。

熊のおじさんは今どうしているのか

大瀬初三郎さんは1935年生まれで、2020年に放送された番組の時点で84歳でした。ご高齢のため、現在の詳しい暮らしぶりについては公表されている情報が限られています。断定的なことはお伝えできませんが、その半世紀の記録は番組や関連の映像に残されています。最新の様子を知りたい場合は、公式の番組情報や報道を確認するのが確実です。羅臼側の知床の情報は羅臼町の観光と知床の楽しみ方のまとめも参考になります。

叱るだけで本当にヒグマは逃げるのか

本来のヒグマは臆病で人を避ける性質があるため、人を怖がっている個体に対しては、目をそらさず声を張って前に出る叱り方が効く場合があります。ただし、これは長年の経験と土地のクマとの関係があってこそ成り立つ技です。人慣れやエサ付けが進んだ個体には通用せず、素人が試すのは非常に危険です。知識として知るのはよいことですが、実行してよい方法ではありません。

ヒグマを叱る男はどこで見られるのか

NHKで放送された「ヒグマを叱る男 完全版36年の記録」や、NHKスペシャル「ヒグマと老漁師」で見ることができます。放送はいずれも2020年で、その後の再放送やNHKオンデマンドなどの配信で視聴できる場合があります。配信の有無や期間は時期によって変わるため、視聴を希望する場合は最新の番組情報を確認してください。北海道のクマ全般については北海道のクマ事情をまとめた記事もどうぞ。

知床でヒグマに遭遇したらどうするか

慌てず騒がず、クマから目を離さないまま、背を向けずにゆっくり後ずさりして距離を取るのが基本です。クマスプレーを携行し、食べ物やゴミは密封して持ち帰り、写真のために近づいてはいけません。単独行動も避けましょう。知床半島の先端部の施設ではクマスプレーとフードコンテナのレンタルができるので、奥地へ入る前に備えておくと安心です。