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自然を感じる北海道

【2022魅力度ランキング1位】札幌と函館の観光地歴史!【観光地の発展プロセスとは?】

2022年の都市の魅力度ランキングが発表されました!

1位は前年に続いて札幌市。2位の京都市を挟んで3位には前年2位だった函館市がランクインしています。

なんと、2年続けて道内の都市がトップ3のうち2つを占めています!以下、横浜市、小樽市、神戸市と日本を代表する観光都市が続きます。

このことから札幌と函館という2つの都市が日本を代表する人気観光地だということが分かります。

ではこの2つの都市は、観光面において、どのようなプロセスを経て、現在の人気観光地の地位を得たのでしょうか?

今回は「新札幌市史」と「函館市史」を参考に、両都市の観光面での発展プロセスを見ていきたいと思います。

札幌市の観光地歴史と発展プロセス

1.明治~大正期の札幌の観光地

札幌の観光に関係する最も古い記述は明治中期頃までさかのぼります。

明治20(1887)年頃には中島遊園地(現在の中島公園)博物館(札幌農学校付属植物園の一部)などがすでに誕生しており、市民の憩いの場となっていたことがわかります。

翌21(1888)年には現在でも観光スポットとして名高い赤レンガ造りの道庁が誕生してます。

一方で札幌の奥座敷ともいわれ、現在でも人気の定山渓温泉は、「景観すこぶる良し」とされていますが、5~11月しか入浴できないうえ、アクセスが車馬と徒歩に限られており大繁盛とはいかなかったようです。

その後、明治41(1907)年には北海タイムスに遊覧案内が掲載されており、その中では「井然として一糸乱れざる市街の区画と、道幅の広」く、初めて札幌を訪れた者はそれに驚かされる、さらに「殷賑なる巷」などと表現され、現在に通じる碁盤の目状の区画や街の賑わいは明治の終わりにはその姿を表していたことがわかります。

また、主な遊覧施設として先述の中島遊園地、博物館、道庁のほか円山公園、各種官公庁の建物や芝居小屋などの案内が掲載されています。

大正に入ると同7年(1917)年には定山渓鉄道が開通し、定山渓温泉へのアクセスが大幅に改善されました。

一方で、こうした行楽地とその紹介は主に地元の人々に向けたのものであり、また当時の時代背景からみても、道外からの観光客はそう多くはないようでした。

しかし、昭和に入ると潮流が変わります。昭和11(1936)年には札幌観光協会が設立され、札幌駅の観光案内所の設置、案内板作成、リーフレットや絵葉書などが発行されたほか、観光業関係者に講習会が開かれるなどしました。

現在に続く観光都市としての札幌の下地はこの時期に作られたのでしょう。

2.戦後の本格的な観光都市としての成長

戦争が終わると、中断されていた観光行事や修学旅行が復活しました。

昭和23(1948)年には国際観光都市として選定され、北海道総合開発計画では外国からの観光客へ向けた対応が求められました。

翌年には大通をはじめとして中心市街地の美化・整備が進められ昭和20~30(1950)年代には現在でも続く雪まつりやライラック祭りが始まったほか、定期観光バスの運行開始など観光面での設備・サービスの拡充が進められました。

また同じ時期、定山渓温泉では昭和29(1954)年の国民体育大会開催に向けた宿泊施設の建築ラッシュがおきるとともに、道道小樽―定山渓線も開通し発展していきました。

これ以降も札幌近郊のスキー場や宿泊施設の開設、繁華街における飲食店の増加、民間航空機の発達をはじめとした交通網整備に伴い、高度経済成長とともに観光需要は増大していきました。

観光施設も近代化し、ビール工場や菓子メーカー、マスコミ各社といった産業観光が定着していきました。こうした姿は現在の札幌観光にも大いに通じる部分があるでしょう。

函館市の観光地歴史と発展プロセス

1.一方の函館は…

函館市内には有名な湯の川温泉がありますが、函館市街からもアクセス抜群のこの温泉街は、明治20年代ば(1880~90年代)に採掘されました。

当時は下湯川村という別の自治体でしたが、採掘が始まると豊富な湯量からすぐに温泉旅館や別荘が建てられ、函館市街地とを結ぶ馬車鉄道も開業し、瞬く間に温泉街が形成され賑わいを見せました。下湯川村は戦前の昭和12(1937)年に函館と合併します。

また近隣の観光地である大沼公園でも同じ頃、観光地化が進みます。

明治37(1903)年には遊覧ボートが運行開始され、その2年後には道立公園に、またその10年後には新日本三景に指定されています。

明治42(1908)年には函館と森を結ぶ鉄道路線に大沼公園駅が開業し、交通アクセスの拡充も図られました。戦前の函館観光は温泉と大沼公園に支えられていたのです。

2.戦後の発展は札幌と同じ

戦後、市は戦時中に要塞として機能していた函館山を中心とした観光都市化を目指します。その過程で登山道の整備、軍事道路の整備による登山道路の改修工事が進められました。

さらに函館山山麓の元町地区を中心とした歴史的景観を活かした観光への取り組みも行われ、映画等のロケの誘致活動も展開されました。また全国の主要駅に向け観光ポスターを配布し、観光振興に努めました。1952年には観光協会が設立されています。

昭和29(1954)年には市内の函館公園や五稜郭公園で北洋博覧会が開催されました。このイベントは産業・文化・観光などの粋を網羅し、北海道開拓の姿を内外に紹介するもので、期間中80万人の入場者がありました。

北洋博覧会は函館の観光地化をより加速させるに充分なもので、市内各所への観光関連施設の設置、遊覧飛行の実施や積極的な観光PR活動の展開が行われ、この時の広報活動は現在の函館観光の広報展開の礎となりました。

その後も、函館山ロープウェーの開業、昭和39(1964)年には五稜郭タワーが完成し現在の函館の観光地としてのイメージが形作られていきました。

【札幌VS函館】決定的な観光の違いは青函連絡船にあった

函館と本州の大間を結ぶ航路は明治38(1904)年に開業しました。1908年には青森とを結ぶ青函連絡船が運航を開始します。これは湯の川温泉の盛業や大沼公園が観光地化したのとほぼ同時期です。

空路が一般的ではなかったこの時代、北海道へは海路でしか渡ることができないという交通アクセスの不便さと、北海道で本州に一番近いという立地は、函館を北海道の玄関として機能させただけでなく、函館の観光地化をも推し進めたのでした。

こうして根付いた観光地のイメージは、戦後交通アクセスが改善されることによって一層強化されることとなります。

昭和35(1960)年には市街地から車で10~15分ほどの場所に函館空港が開港しその約10年後にはジェット旅客機の運航も可能になりました。

昭和63(1988)年には当時世界最長の海底トンネルだった青函トンネルが開業、平成28(2016)年に近隣の新函館北斗まで新幹線が開通し、現在でも多くの観光客が訪れています。

まとめ

北海道を代表する観光地である札幌と函館。

観光面での発展プロセスは戦後~高度経済成長期に大きく発展したという部分では同じといえますが、戦前、特に明治~大正期においては交通アクセスや立地条件により、異なる発展の仕方をしたということがわかりました。

観光地として名高い札幌と函館。皆さんも改めて明治時代からある古の観光スポットを巡る旅に出てみてはいかがでしょうか。

参考文献

https://news.tiiki.jp/articles/4783

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0110005100

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0120205100